京都アニメーション事件・いわゆる京アニ事件について

 

 いわゆる京アニ事件で、被告への地裁判決が出ました。この事件については、以前からマスコミでいろいろ報道されていて、あたかも問題点は出尽くしているかのようです。しかし私の見るところでは、すべての関係者が忘れている問題があります。それは被告が主張している盗作問題そのものです。検察によると、被告が投稿した原稿の内容を京アニ関係者が盗作したというのは、被告の勝手な思い込みに過ぎないそうです。この簡単な報道があるだけで、それ以上の詳しい情報はありません。この検察認識は決定的に重要ですが、私の知る限りどのメディアもその検証内容を報道していません。この事件のあとにも別の盗作事件があり、盗作を訴えた人が裁判で負けて百数十万円の賠償金支払いの判決を受けました。この事件でも、盗作それ自体の詳しい事情についての報道はありませんでした。

 盗作(或いは剽窃)問題については私も被害経験をしましたが、大学教授でさえその意味をよく知らない人がいました。私の観察によると、その大学教授は、具体的な文章表現つまり言葉使いの面で一致する部分がどれだけあるかという点が判断基準である、と思っていたようです。テレビでは、具体的な文章表現や具体的な旋律の面つまり表現方法の面で、盗作問題を扱う番組を数回見ました。しかしこれらの場合は芸術作品に関する場合であって、学術研究に関するものではありません。学術研究の場合は思想内容の面が判断基準になります。その大学教授はその時までそれらの盗作基準を知らなかったのですが、今度の京アニ事件の被告や司法関係者たちはどんな認識をもっていたでしょうか。もし作品の内容の面が京アニ関係者に無断利用されたために、被害者意識をもったとすれば、それは被告の誤解である可能性があります。もしかするとその作品内容は被告が自分の経験に基づいて仕上げた貴重なものだったかもしれない。この場合は、被告自身の人格表現ともいえる作品が内容の面で盗作されれば、それは自分の人格そのもの・自分の人生そのものの否定の意味をもちます。しかし被告にとって何物にも代えがたい貴重な内容であっても、盗作ではないかもしれません。被告の作品内容に似た芸術作品は、探せば過去にいろいろありうるのです。もし被告にこれらの判断基準に関する認識がそれ以前からあれば、事件はなかったかもしれない。

この種の問題で、以前から私が感じていたことは、一般に思想的なものへの関係者の態度にかなりのばらつきがあることです。私も過去にいろいろな試験を受けましたが、審査員の態度はいろいろでした。なかには思想的なものへの誠実さ・敬意を全く感じさせない態度がありました。教育・研究の世界にもいろいろな人間がいますから、中には思想よりも「金と力」を自分の行動原則とする人もいます。この種の人は思想を道具扱いする傾向があり、盗作はその扱い方の一つです。したがって思想を自分の行動原則とする人間の方は、この種の態度に対して適切な対応を考える必要があります。今度の京アニ事件では、もし応募作品の内容の面に独創性・唯一性がなければ、京アニ関係者は、その内容を利用しても、作品名を京アニ作品に掲示する必要はありません。しかしその場合でも、もしその応募作品の内容をすぐ利用したいと思った時には、少なくともそれらのことを作者へ伝えるべきでしょう。審査員がその立場上で得た情報をその目的外のために無断使用することは、公私混同・礼を失する態度・審査体制自体の信用失墜です。無断使用には、審査に無関係の人への情報漏洩も含みます。私が経験した剽窃問題でも、最初の剽窃者は私が応募した審査に無関係の人でした。京アニ関係者たちは事件の被害者ですが、犯人の怒りの原因になったことについては、慎重に考えてみる必要があります。故冝保愛子氏の霊にも聞いてみたいものです。2024・1・28