『論語』で用いられた方法論と八代亜紀の歌について

 

論語』で用いられた方法論、つまり必要・十分条件と本質性には、いろいろな使い方がある。今日たまたま思いついたものは次の通り。歌手八代亜紀の持ち歌に「もう一度会いたい」がある。その歌詞には、別れた相手への恋心はあるが、相手は浪間の向こうにいて姿は見えない。ここでは、恋心という必要条件はあるが、会うための十分条件がない、といわれている。そこで持ち出されるのが、本質性に基づく次の認識である。「もう一度会いたい」ということは、相手と自分との一体化つまり同一性を願う意味がある。しかし実際にはそれが出来ない。できないということは、相手と自分とが物理的に区別されていることであり、このためこの区別への見方或いは態度が生じる。「さようならも聞こえない」ということは、実際の言葉かけではなく、単なる現状認識であるが、少なくともそこには相手への自分の活動についての認識があり、これは潜在的な能動性である。哲学的に言えば、これは自分自身に即した活動つまり即時的な能動性である。この能動性は同一性を目指しているから、即自的な同一性であるともいえる。「さようならも聞こえない」と嘆くこと、さらに「酔いどれて」「泣きぬれた」ということは、より具体的な能動性であるが、いずれも相手へ直接的に関わる活動つまりいわゆる作用ではない。これに対して「追いかけて」という言葉自体は一種の作用である。しかしそれだけの場合は、それは直接的な作用ではなく、直接的な作用になることを期待する作用、つまり間接的な作用、或いは即自的な作用である。

以上においては、同一性そのもの、同一性を願う認識活動、同一性の実現を目指す作用の発展諸段階がある。論理学では、以上の過程を同一性・差異性・対立と呼んでいる。この対立には、作用の外に反作用もあり、又そこから矛盾が生じる。先の歌の歌詞には、「追いかけて」という作用までしかない。しかしその歌詞を深読みすれば、恋心をもつ歌い手に対して、その相手は何も答えないという態度をとっており、その態度は一種の反作用である。この点で対立段階は一応成立している。つまり対立の初期段階は成立している。しかし論理学に従えば、先の歌はさらに深読みすることができる。へ―ゲルが示したように、対立は矛盾に発展する。先の歌の場合、歌い手は歌の中で相手に対して同一性・差異性・対立という三つの態度をとっているが、同時にそれを声を出して歌っている。これは、その三段階の活動とは異なる別の活動であり、何らかの相手(聞く人)を想定した作用である。歌手が歌の中でとる態度と歌うときの態度とは異なるし、それらの態度が向かう相手も異なる。しかし歌手は、聞く人(或いはその関係者)があたかも歌の中の相手であるかのように歌っているから、それらの作用関係から新たな事態が生じる。一つの側面として、恋する人は相手にいろいろ働きかけるが、恋の相手はどこかで何も答えない態度をとる。恋する人はいろいろ働きかけているが、実際にはそのすべては相手に届いていない。このため、恋する人の様子全体つまりその作用全体は、その相手の反作用の結果としての意味をもつことになり、ここから矛盾が生じる。つまり恋心が示す態度は、相手に何も示さないのと同じであり、実は歌い手自身も、自分の恋心の働きは、自分自身の別の姿をした相手に示す働きだ、つまり相手に何も示していない、と自覚するのである。別の側面では別の矛盾が生じる。つまり聞く人は自分が歌手と同じ立場にあるかのように感じる。歌手はそうなることを願って歌うのであるから、それが成功すれば、聞く人は同時に歌手でもある。こうして生じる二つの矛盾は、聞く人の心に複雑な響きを与え、それぞれの経験に応じた反響を呼び起こす。歌い終わった歌手がにっこり笑うのは、それを願って歌いそれが叶ったことを感じるからであろう。同一性原理には、その種の感情を生じる機能もあるのである。