自己紹介―四点の自著と大学問題との関係について―

自己紹介―四点の自著と大学問題との関係について―

               米川研究所 米川浩

               2023・12・23

(1)院生時代の就職活動について(私の方針・受験事情・その後) 

(2)院生時代の諸問題(慣例的師弟関係)

(3)大学界における一般的問題(慣例的審査方法・その影響)

(4)私に関係する大学界の諸問題(教育・研究)

(5)現在の課題(認識方法論・人類史的課題) 

           

      ☆ 

(1)院生時代の就職活動について(私の方針・受験事情・その後)

 

私は和歌山大学大学院に在籍していたとき、研究職への自分の就職問題について指導教授に次の趣旨の話をしました。

 

「自分が以前在籍した立教大学大学院で、でたらめ審査を経験したので(注1)、研究職への就職では公正な審査を通じて就職したい、そのために現在、ある大学の公募へ応募しているところです。」

 

和歌山で指導教授にこの話をしたとき、私の念頭にあったのは当時のプロ野球における選手選抜方法でした。当時はまだドラフト制度導入以前で、多様な方法が用いられていて、きわめて公平・公正な方法に見えました。そこで私もその方法で就職したい、と思ったのです。その方法の中には球団側の一般公募とプロ入り希望者側の一般公募とがあり、後者は高校・大学等の終了予定者がプロ入り宣言をして球団側スカウトの来訪を待つ、というものです。しかし当時は、大学院の終了予定者側が大学を一般公募する前例や仕組みはなかったので、私は大学側の一般公募へ応募しました。

和歌山で指導教授に前記の話をしたとき、その指導教授はその時点では何も言いませんでしたが、その後の経緯を見ると指導教授はこの話の詳細を調べた形跡があります。その結果として指導教授は私の方針を一応認めたと思いますが、同時にその難しさも認めていたでしょう。

 私は、その前後に合計5つの大学の助手公募へ応募して論文その他の資料を送りましたが、それらはすべて不首尾に終わりました(注2)。このため私は、卒業後は自営の研究者になり1,980年に地方小出版流通センター(準取次)と取引を開始して出版業者になりました。同センタ-からの自著の出版・販売数は今までの合計三点です。今回の電子書籍(『「論語」・「中庸』の編集思想―秘密の研究集団の目的は何か?―』KDP版)は私の四点目の出版物です。

 

(2)院生時代の諸問題(慣例的師弟関係)

 

私は大学院在籍中から、研究助手の公募における審査では公募要項に記載のない条件つまり推薦教授の働きかけの方が決定的要素であることは聞いていました。しかしその慣例的な審査方法について、以前から疑問を感じていました。それまでの私は、初等教育以来全て、いわゆる客観的評価制度の審査を受けてきたので、これまでの経験とその審査方法との違いに違和感があったのです。しかし当時の私の気持ちでは、日本の大学界の中には、特に社会改革を目指すマルクス主義学派の中には、客観的審査を重視するところがあるのではないか、という期待がありました。又客観的審査を希望することには十分な正当性があるとも思いました。さらに又その期待は、私が大学卒業時に考えた自分の生き方にも沿っていました(注6) 

 

推薦教授主導の審査方法は、日本では近代以前の師弟関係(とくに寺社における師弟関係)に起源をもち、近代以後も、大学教員数が少なかった第二次大戦(WWⅡ)以前には美風の話を伴うこともある慣例的制度でした。しかし戦後の教育制度改革以後は大学院数が増加したために、その慣例的制度は以前とは別の目的のために継承されているように見えます。この審査方法のために、大学院生は否応なく日常的な師弟関係においてこの別の目的の影響を受けることになります。すなわち一般的に教授側は師弟関係において、自分の学問的な影響力が院生に受け入れられることや、自分が好む形態の人格的紐帯の形成などを望みますが、紐帯の具体的内容は様々です。院生側は学問と共にその紐帯への対応方法を学びます。このような師弟関係それ自体は必要であり必然的な関係です。しかし現実の関係においては、しばしば問題が発生します。例えば私の院生時代には、教授側が自説の明白な誤りを認めずに強弁しつつ従来と同じ信頼・尊敬による人格的紐帯を求める場合や、教授側が研究・教育の面における人格的紐帯をそれら以外の面にも適用した場合がありました。前者の場合、教授たちは後で自説の誤りを自分で修正しながら、修正した事実を認めないで、従来的な内容の人格的紐帯をそのまま保とうとすることがあり、後者の場合は、自分の態度を当然視あるいは美風視する態度を伴うことがあります。例えば私の院生時代には、教授側が自分の研究室の引っ越しの手伝いを暗に要求したり、自分への忠誠心の本気度を確認したい態度をとり〝(自分は)封建的なんだ〟と明言したり、ということがありました。特に就職シーズンにはいわゆる御恩・奉公関係を確認させようとして、院生にわざと冷たい態度をとる教授たちもいて、ある院生は〝指導教授は就職の世話をするのが仕事じゃぁないのかい・・・〟と愚痴をいっていました。これらの権威主義や公私混交は、教授側の個人的性格だけでなく学界内における政治的野心からも生じているようです。学界選挙や学内選挙のために、このような慣例的的な師弟関係や縁故就職が利用されていることは常識です。

 

(3)大学界における一般的問題(慣例的審査方法・その影響)

               

師弟関係における前記の諸問題は、院生間では、話題になっても自分の内面で処理するだけで、院生側が表立って問題にすることは稀であり、又このような人間関係が研究・教育面に及ぼす影響も問題になっていません。このことについて学問的方法で研究した例を私は知りませんが、しかし問題自体は存在しており、重要ないろいろな社会的副作用が生じています((4).注7・8・12)。もし、汚れた空気や水の中で生活しながら健康増進・運動技量向上に励む人が指導者としていれば、おそらく誰もが疑問を感じるでしょう。研究・教育面における慣例的な師弟関係についても、同様の問題意識が必要です。そこでこれらの問題を、当面、必要条件つまり発生原因と十分条件つまり醸成的原因に注目して検討してみましょう。以下において大学界内における発生原因とは慣例的な審査方法であり、醸成原因とは慣例的な師弟関係です。又社会問題の場合は、大学における教育・研究事情が発生原因であり、卒業生特に元優等生たちの組織的・慣例的諸事情が熟成原因です。

 

大学界における問題に関しては、次の事情があります。研究助手職への就職に成功した人のほとんどは、「自分が今この職にあるのは〇〇先生のおかげ」と思っているでしょう。しかし大学入試に成功した人のほとんどは「自分が今ここにあるのは小学校以来の自分の努力の結果だ」と思っているのです。この違いが特に問題になることはありませんが、それは恐らく院生が大学院を卒業する頃には、院生の心の内部で先の人格的紐帯(慣例的師弟関係)と思考習慣がすでに出来上がっているからです。この紐帯の具体的形態は地域・校風・個人的事情等によってさまざまですが、そのすべてが就職事情から始まっていることは明らかです。この場合に問題なのは、この事情とそこから生じる思考習慣であり、又その思考習慣と客観的或いは普遍的な妥当性との関係です。この関係が問題になるのは、研究・教育の場や職場その他で何か問題が起きた時です((4). 注7・8・12)。

 

一般的に言えば、大学は専門の壁に守られているので、壁の中で行う研究・教育について外部から批判を受けません。同じ大学内部でも、或いは大学界内部でも、内部的・独自的なルールで問題が処理されるようです。問題は、そのルールとその運用の仕方が不明確であり、ご都合主義的に見えることです。このル-ルに関しては、昔の武士社会にあったいわゆる「武士は相身互い(あいみたがい)」的なル-ルを連想させます。このルールのマイナス面は、お互いの不正を黙認しあうという場合です。私が見た範囲では、日本の武士道を現代に伝える数冊の著書にはこのルールについての記述はありません。しかし、それらの著書を残した武士たちは、この集団的なルール以上に武士には重要なものがあると思っていたでしょう。「相身互い」という共同体意識だけでは原理的に不十分なのです。したがって、私がこんな大学批判の文章を書いて公開することは、江戸時代に武士道の著書を残した武士たちと同じような意味があります。それらの著作にある武士道には、現代に通用するものが多数あります。その本質は『論語』に属していて、私の第4点目の著書(『「論語」・「中庸』の編集思想―秘密の研究集団の目的は何か?―』)が述べているように、古代以来日本文化の基底であったものです(注13)。客観性・普遍性を重視する私の思想活動もこの基底の働きであり伝統的なものですが、ここには私が提唱する哲学的原理が法則的に働いています(注11)。つまり奈良時代の『続日本紀』、江戸時代の武士道(注8・13)、等における日本人の精神的態度は、この哲学的原理における思想系に属し、その自立的働きは、人間系・自然系に属する精神的態度その他に対して何らかの否定的意味をもっています。武士道で言われている独立自信その他の言葉は、個人の内面的関係ですが、日本人という集合体の内面的関係にも適用可能です。この場合は日本国内における諸集団が、思想系と人間系・自然系との関係として区別され、それぞれの法則的機能を担うのです(注10・13)。日本が島国だったことは、集合体の内面的関係の熟成に役立ったように見えます。

 

(4)私に関係する大学界の諸問題(教育・研究)

院生時代における就職問題は、私の大学卒業時における方針(注6)が受けた一大試練でした。自分で正しいと思う生き方と現実とが一致しないという問題は、古くて新しい問題ですが、当時の私はその問題に自分単独で取り組むしかない状況でした。そこで私は自分のやり方で問題を提起しその解決に努めることにして、あくまで公募への応募に徹することにしました。

院生時代における私の主要問題は研究であり又そのために必要な対応策でした。特に精神的対応つまり心のもち方の場合、本来の研究以外の面における不正への対応をどうするかという問題があります。本来的に客観性・普遍性を求める研究と正義感を欠く日常的態度とは整合しません。しかし現実には不正行為・不合理な制度や慣習等は多数あり、しかもそれらが他面では何らかの合理性をもつ場合もあります。この場合に何が正しいか(或いは何が善か)ということは当面の状況次第ですが、その状況認識は認識主体次第でもあり、このため認識上の困難や争いが生じます(注11)。当面の就職問題については、客観性・普遍性を求める立場から慣例的方法を批判することが正しいように見え、その批判を行うことが自分の研究目的に整合するように見えました。しかし当初の私の批判方法は公募への応募だけでした。その頃全国的に広がったいわゆる全共闘運動は、教育界における日常への原理的批判である点で、私の問題提起と基本的には同じでした。しかし就職問題に関しては先例もなく同志もいないので、私の批判方法は、他者との連帯を伴わない単独行動でした。それは客観的審査を受けたいとかその問題を提起するためということの外に、自分の研究にいわばパワーをつけるためでもありました。研究で正しいことを言えないようでは、他人の研究・教育の態度を批判する資格はないので、批判するためにはしっかり研究しなければなりません。つまり当時の私の認識では、このような自分の内面的な調和或いは統一を保つことは研究力と批判力との源でした。立大大学院における二度の審査の後、私はほぼこんな自己認識をしていましたが、それはその後も続きました。この他者批判的な研究活動は、それぞれ所定の結果をもたらしましたが、そこからも様々な問題が出現しています。

 

 

(5)現在の課題(認識方法論・人類史的課題)

 研究職就職事情と日本の教育・研究事情との関係、或いは大学を頂点とする日本の教育界と司法問題・民度等との関係には、必要・十分条件という方法の適用が可能です。しかしこの方法には重大な欠陥があります。この方法の適用の仕方に恣意が入り込むという問題です。実際にも、以上における私の説明に対しては、さまざまな異論を提示することが可能です。私の第4点目の著書が述べているように、実は『論語』・『中庸』の編集者たちもこの方法を提示し・用例を示すだけでなく、この方法の欠陥を自覚して、この方法を超えるより高度な方法を提示しています。それは論理学的方法であり、特にヘーゲルが述べた本質性原理(同一性・差異性・対立)の応用です。近代哲学の最高水準に属すヘーゲルの哲学原理が 2000年以上も前にあったことは驚きですが、これは事実です。本稿では私もそれに習って、必要・十分条件を超えるその哲学的原理を用いています。すなわち同一性としては、人間生活の一般的・基礎的原理である生活体系(自然・人間・思想)を提示し、差異性・対立としては、その原理的体系から生じる類型体系(自然系・人間系・思想系)の内部関係を示しました。すなわち私の立場を思想系として、それと異なる大学教員その他の立場を自然系・人間系として示し、両者の差異性・対立を示しました。この類型関係を通俗的に言い換えると、思想重視と「金と力」重視との関係です(注10・14)。私の批判を受けた大学教員たちが、約40年間に何一つまともな反論・回答等をしていないことが、彼らの類型を示しています。そこでこの類型の成立に関する必要・十分条件と、類型関係における法則性が問題になります(注11・14)。

 

大学と自営業者との協業は産業界では以前からありますが、自営業者としての私と大学との協業は今まではありません。私の今までの研究は自分一人でできるものばかりであり、又必要な研究資料は誰にでも入手できるものでした。

しかし私の研究内容の中には、他分野へ適用すべきものがあり、その多くは手付かず状態です。例えば論理学的原理、特にへ-ゲルの本質性原理の場合、人類史におけるいわゆる所有制度史への適用問題があります。マルクス・エンゲルス社会主義社会の到来を主張したとき、その原理の適用を行ったと思いますが、以前私が数週間思考実験してその原理を適用したときには、彼らの言う社会主義社会は到来しないという結論が出ました。重要問題なので、その歴史学的実証を始めたのですが、その作業量が膨大になりそうなことが分かり、又その他の事情もあってとりあえず作業を中断しました。

第⒉点目の著書(『新しい哲学は和歌を通して』第一部)で用いた方法論を日本近代史へ適用する課題も未着手です。この方法論は第1点目の著書(『へ-ゲル論理学と「資本論」』)の第二版序論で詳述したように、へ-ゲル・マルクスの段階(いわゆる『資本論』の方法の段階)を超えるものであり、第⒉点目の著書はこの方法の歴史学的実証のために書いています。この場合、人間の歴史には何か一般的な運動法則があるのではないか、又その法則は単線的な歴史的過程でなく現実的・複合的な歴史的過程を扱うことができるべきである、という問題意識がありました。この新しい方法論の有効性は、過去の日本文化史に対しては、ほぼ期待通りでした。しかしこの方法論と第⒉点目の著書の本来の目的は、実は、日本近代史の未来を理論的に予想することでした。この課題についても数週間思考実験しましたが、やはり実証的に証明する作業の膨大さのために、この課題も未着手です。

第3点目の著書『中国の古代文化(1)―人類史の哲学的研究―』で用いた方法論は、歴史的・時間的であると共に理論的・空間的にも働く一般的法則の適用です。時間的・空間的に働く一般的法則という思想は、ヘーゲル哲学に内在していますが、私の第3点目の著書において具体的に適用され検証されています。そこで概略を示したように、それらの一般的法則は私の構想した哲学体系全体です。つまり倫理学・統一的原理学・論理学からなる哲学体系とそれぞれの内部体系です。倫理学の本質を次第により深く段階的に示すことによって、統一的原理学が成立し、統一的原理学をより深く・段階的に示すことによって、論理学が成立します。統一的原理学とは私の造語ですが、私の第4点目の著書で詳述したように、その原理そのものは古代の東西世界で成立しています。このように哲学的原理が認識・叙述の方法論として使えることは、ヘーゲルから始まります。彼は論理学的内容を述べるときに、述べる方法が内容と一致することを目指しました。マルクスヘーゲル論理学の諸原理(特に本質性・絶対的相関)を用いて『資本論』を書きました。私の第3点目の著書は、私が生活体系と呼ぶ初期的・基礎的な三原理関係(自然・人間・思想)が時間的・空間的に働くことを述べています。数百万年に及ぶ中国の石器時代に属する出土品のすべてを、この体系的原理を用いて分類することができます。ここから言えば、地球上の人類全体についても、同じ方法によって説明できるのではないか、という問題が生じます。これは人類の運命に関する問題です。

 

以上において扱った方法論はいずれも哲学的諸原理の応用であり、したがってそれらの方法論の全体は新しい哲学の体系全体を形成すべきものです。したがってこの哲学体系は、人類史研究の方法論であり、したがってそれは中国の古代文化を超えて、その他のあらゆる文化的活動に対して適用・検証されるべきものです。外ならぬ人類が行ってきた哲学研究への歴史的・理論的な研究活動に対しても、一般的な運動原理として働くべきものです。

私の第4点目の著書は、これらの諸方法を用いて、『論語』・『中庸』の内容分析と、その歴史的位置づけをしています。それによってこの両書が、通説とは全く異なる編集思想に基づいて書かれていることが分かりました。又その詳細説明では、同時に、地球上における中国古代文化の地域文化的位置づけをしています。しかしそこでも述べたように、この方法の人類史的・一般的有効性の検証のためには、中国の古代文化を扱うだけでは十分ではありません。この方法を人類の文化活動全体へ適用し、検証する作業が必要です。

               

 

             ☆

注1 立教大学における私の修士論文(注3)に関する口頭試問(約1時間)では、その終わり頃に指導教授が私に「これが終わったら隣の部屋で待つように」と指示し、私が隣の部屋で待っているとやがてやってきて「あれじゃあ評の書きようがない」「まだ提出していない原稿(提出した修士論文の続きの部分)はあるか」「あるならそれを出せ」と言いました。つまり今のままでは不合格だから、追加の原稿を出せば卒業だけはさせてやる、という意味です。そこで私は、400字詰め原稿用紙10数枚分を提出しましたが、その内容は、提出した修士論文(提出した部分は一般的な資本主義理論)の続きの部分(具体的な日本資本主義論)ではなく、口頭試問で出された私への批判への反論でした。その内容はマルクスが『資本論』を書いた時に用いた方法に関するものであり、マルクス学界では単に「方法論」と呼ばれているものです。その反論によって、私の論文を批判したY教授は学問的に破産してしまいました。つまりその教授がそれまで何十年も大学で行ってきた『資本論』講義が、方法論的につまり根本的に誤りであることが証明されてしまったのです。これではその教授は、私がいるところで研究者・教育者としてそれまでと同様の特徴的態度で院生に講義することはできません。口頭試問の審査員三人のうち、論文内容と同じ一般的経済理論を担当する教授はそのY教授だけであり、しかもそのY教授は経済学部内で最古参級の有力教授でした。結局、指導教授は私の論文に「良」の評価を出しましたが、この評価は学問的評価ではなく、教授間の力関係の中で指導教授が自身の保身のために考え出した評価です。つまり、恐らくY教授は自分の誤りを認めずに強弁し、専門外の専攻者であるほかの二人の教授はY教授の意向を無視できず、足して二で割るような評価を下したのでしょう。その証拠に、私を批判したそのY教授は次のドクターコース進級試験ではその反論書の内容に全く反論せず、その一部の言葉尻への質問と修士論文本文への新たな批判(他者の論文からの引用文が多い)をして、(私の論文は)修士論文にも値しない、と述べました。しかもその進級試験では、私の修士論文の本文は正面に座った審査委員長の手元にありましたが、後で提出した反論書は最後までそのY教授の手元にありました。恐らくそのY教授が私の反論書を教務課の所定の論文保管場所へ返却したのは、試験結果が出た後でしょう。このためY教授の新たな愚論的な批判は、そのまま審査員たちに受け入れられた形跡があります。

そのドクターコース進級試験では、質問担当のために正面に座った3人の教授は、一般的な経済理論を専攻する教授たちでしたが、その中で主に発言したH教授が真っ先に述べた言葉は、「(提出された)論文をまだ読んでいませんが・・・」でした。外の2人も同様でしょう。H教授のその後の質問内容は、私が冒頭説明で述べた自分の研究成果ではなく、それに続いて述べた自分の論文の問題個所に関するものでした。その後の質疑応答は、ほとんどすれ違いに終始し、結果は不合格でした。この審査結果の詳細については、私は指導教授から何も聞いていませんが、その試験の10日位後で私が院生のたまり場へ行ったとき、数人の人が私の不合格理由について言及しました。曰く、「(労働力不足の必然性をもつ現代日本資本主義論を扱う私の論文に)独占資本主義理論が書いてなかったんだって・・・・?」

この言及内容は恐らく、進級試験会場にいた10数人の教授のうちの誰かから聞いたものでしょう。その試験会場では、私は、冒頭説明の中で自分の論文の最大の成果(いわゆる窮乏化論への方法論的解釈. 注5)を述べましたが、それについて質問した教授を含めて誰も、それを成果としては認識しなかったようです。例えば私のその方法論的解釈に対してM審査委員長は、「『資本論』が抽象的だからそれを具体化すべきだということは、その通りだ。」と述べただけでした。以前の修士論文の審査員である三人の教授は、私の反論書を読んだ後、私の方法論的解釈を重要な成果として認識したはずですが、先述のように、一般的経済理論専攻の有力教授の強弁を受けて、成果としては正式評価しなかったのです。その三人を代表して指導教授がその審査結果を教授界へ報告したときも、恐らく論文の最大成果は言及されていなかったでしょう。指導教授から〝追加論文の後で出された「良」判定〟という審査結果報告を知らされた教授会が、私の論文に見るべき成果があったと認識することはなく、したがってドクターコース進級試験では、質問担当者たち三人は私の論文を読まず、もっぱら私が述べた論文の問題個所へ質問したということです。

 

結局私の修士論文には見るべき研究成果なしという理由で、私は進級試験で不合格になったのですが、しかしこの試験の数週間後には、全く別の不合格理由が院生間に伝わっていました(注4)。立大経済学部の教授たちが作り話をするのは、これが三回目です(修士論文審査における有力教授の強弁、指導教授による教授会への報告、今回。四回目は後述)。その頃私は教務課のある職員から、翌年からドクターコース進級試験では質問担当者が修士論文を読むことになった、という趣旨の話を聞きました。さらに別の問題も発生しました。すなわち、私が論文に書いた最大の研究成果(いわゆる窮乏化論への新解釈)が、審査結果発表の約一カ月後に学外者であるM氏によって剽窃され、その後極めて深刻な事態が生じたのです(注5)。る。

 

注2 進級・就職試験で、不合格通知をうけとった後に私が質問書を送り、その後自分の著書で固有名詞をつけて経緯を公開した大学は2校、不合格通知を受けとっても何もせずに済ませた大学は3校であり、外に実名をつけて公開した剽窃問題が4件あります。就職試験では、Ⅰ校から、論文等の一次審査の後、私が受けてもいない二次試験の結果不合格という通知が来ましたが、その外はすべて一次審査で不合格でした。

 私が質問書を送った大学は、特に論文提出を義務付けてその論文の審査の結果として不合格通知を送ってきたところです。論文或いは一般に学問に対する誠実さ或いは敬意に関して、問題ありと感じた大学です。送り先のうち1校は無回答、もう1校は理由を示さないまま審査結果の正当性を述べた回答書が来ました。過去においてこの種の審査で、受験者が質問状を送る例はおそらく皆無でしょう。しかし私の場合、必要な確認作業なのです(注6)。

 

和歌山の大学院を卒業した一年数か月後、同大学から10数校の大学の助手公募案内書が送られてきました。これは私の依頼によるものではなく、私の希望を推測した教授たちの配慮によるものです。この点では私は自分の方針への理解者を得たような気がして、内心で感謝しました。その時に私が応募したのは福島大学経済学部だけでしたが、その主な理由は、募集条件が方法論担当であり、当時の私の研究状況に対応していたことです。卒業後の私は哲学史の研究を始めたし、その後も経済学とは別の分野を予定していましたので、研究分野の自由な選択権がありそうな担当分野は適任でした。

福島大の審査結果は不合格でしたが、この不合格に関しては、恐らくそのころ私が東北大学へ提出した質問書等の文書問題が影響していたでしょう。10数校の助手公募案内書が送られて来る以前に、私は東北大学の助手公募へ応募したのですが、同大学から論文を含む書類審査段階で不合格という趣旨の通知が来ました。そこで同大学へ質問書を送りましたが、具体的内容のない形式的な回答が来ました。そこで再質問書等を何度が送りましたが、その回答はありませんでした。恐らく、慣例的審査方法が行われているのだから審査方法について聞くのは野暮、答える必要もない、というのが先方の認識でしよう。この場合は、質問書の送付自体が異例です。しかし私から見ると、大学の人事問題は大学が自己の見識を示す重要機会の一つであり、見識とは客観的・普遍的妥当性に係わる態度です。無回答という態度には客観的・普遍的妥当性がありません。しかし現実的には、東北大学のこの態度は大学界の常識を前提して行われたものであり、福島大の判断もそれに同調したものでしょう。他方、これらの場合に私が一番問題だと思ったことは、東北大学には学問への誠実さ或いは敬意を全く感じなかったことでした。もし何らかの事情で外の応募者を優先しなければならない場合でも、学問への誠実さ或いは敬意があれば私への何らかの別の対応をすることは可能です。その実例は私が応募した外の大学の中にも又民間企業の採用試験にもありました。しかし同大学による単なる不合格通知、内容のない形式的な回答等は学問や応募者への不誠実さ或いは敬意なしの表明であり、問題の重要性への決定的な認識不足です。立派な理念を掲げる大学におけるこのご都合主義的態度については、同時代人としての誰かが問題提起する義務があります(注10)。へ戻る。

 

 

注3 立教大学における私の修士論文(論題「資本主義的労働力不足」)は、過去の人類史における経済的所有制度の変革期にはいつも労働力不足現象があった、という当時の私の仮説に基づいて書き始めた論文です。直接的課題は、修士論文の口頭試問で述べ、又その後追加論文でも書いたように、過剰人口の累進的生産を述べるマルクスの『資本論』から現代日本の労働力不足現象を説明する、という内容であり、このため問題の核心は、方法論にあります。当時の私のその仮説に関しては、それを聞いたある先輩の院生が「労働力不足によって所有制度が変わるのか」という疑問を述べました。私は「いやそうではなく(つまり労働力不足が直接の原因ではなく)、所有制度の変化する時期には労働力不足現象が生じるのではないか、つまり従来通りのやり方では必要な労働力が確保できなくなるのではないか、ということです。」と答えました。他方、直接的課題の核心である方法論について言えば、当時のマルクス経済学界では、いわゆる宇野理論の扱い方が中心問題になっており、それはもっぱら方法論に属す問題でした。宇野学派が特に問題にしていたのは、従来のマルクス学派における窮乏化論論争であり、無意味に見えるこの論争こそマルクス理論の最大欠陥のせいだ、というものでした。

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注4 進級試験の結果発表から数週間後に、学部・大学院を通じて知人だったN君へ私は自分が受けた一連の試験に言及したハガキを出したことがあります。彼からの返信には、私の不合格に関して「自業自得だ」という言葉で私への批判が書いてありました。又同じ頃、学部時代の同級生T君との電話では、彼が以前所属していたゼミのN教授の話として、「米川君は学をひけらかしすぎる」という言葉(不合格理由)を聞きました。このN教授は私の修士論文の審査員三人のうちの一人であり、又進級試験でも審査員として列席していた人です。したがって当初の不合格理由(研究成果・研究能力なし)を知っていたはずですが、恐らくその後有力教授たちの認識が変わったため、N教授もそれに同調したのです。それ以前の修士論文の審査の時にも恐らくそれと同様に同調的だったのでしょう。つまりその審査当初は自分の意見をもっていても、結果の段階で有力教授の強弁に自説を合わせたのでしょう。このN教授は労働問題専攻なので、『資本論』のいわゆる窮乏化論に大いに係わりがありますが、二度の試験の場で私の論文の成果らしいもの(注5)へ言及したことは一度もありません。恐らく進級試験の数週間後に、何らかの理由で私の論文を読んだ有力教授たちが、不合格理由として以前とは別の理由を考え出して院生たちに話し始めたのでしょう。そしてその前と同様にこの時も、N教授はそれに同調したというわけです。ゼミ生T君への話から見ると、それは学問的内容についての不合格理由ではなく、恐らく人格的理由でしょう。なおその10年位後のことですが、私がヤクザ関係者になったという話が立大内で考え出されて立大外部にまで広まったようです。少なくとも四か所以上の異なる場所で私は人々からそれらしい待遇を受けました。この四か所以上の場所とは、立大外部の互いに別々の種類の場所であり(そのうちの一か所には立大大学院を卒業して別大学の教授になった人がいました)、人々から共通した態度で、私の身に覚えのない拒絶反応を受けました。このヤクザ話も、昔の不合格理由と内容的に整合し、不合格判定を正当化する効果はあります。その後その作り話にもとづく対応を是正してくれた所が一カ所だけありましたが、それは東京のマスコミ関係者たちからの情報によったと思われます。東京のマスコミ界は、長年私に関する情報を最も多く持っているところです。

 他方、私が大学院卒業後にも付き合った院生仲間は、立教関係も和歌山関係もすべて学校教員にならなかった人たちです。和歌山関係のI 君とは東京で彼が郷里に帰るまで、N君とは主に電話で、彼が死亡するまで付き合いました。立教関係では、H君とK君との三人で数年おきに数回会い、その後は主に年賀状交換です。この二人は、それぞれのやり方で社会改革・社会貢献に従事してきた人たちであり、この三人の写真を、私は自分の第4点目の本の末尾にある自己紹介欄に載せています。他方、教員になった人の場合は、その人の側から私への接近を避けたり、私から彼らへの接近を避けたり、です。前者は、助手採用審査における慣例的方法への私の方針・具体的対応を知っている場合であり、後者はそれを知らないし私からも話さないという場合です。もし後者にそれを話したら恐らく前者のようになるでしょう。へ戻る。

 

 

注5 労働者状態に関するいわゆる窮乏化論は『資本論』における最重要論点の一つであり、具体的な政治路線にも係わるため、マルクス・エンゲルスの死亡直後から論争が始まり世界中の『資本論』研究者が参加して現代に至ったものです。とくに日本では『資本論』論争が盛んで、実にさまざまの論点について学界を挙げて論争が行われてきました。それらの論争に関しては、WWⅡ直後から5~6年ごとにそれをまとめる書籍が何度か出版されましたが、窮乏化論はいつも最重要論点でした。

私の第Ⅰ点目の著書(『ヘーゲル論理学と「資本論」』1980年 米川研究所)は、日本におけるこの『資本論』論争のうち『資本論』第一巻に関する論争のほとんどすべてに決着を与えるもので、この著書の後、『資本論』論争を扱った著書は日本では全く出ていません。私の著書は、関係学界の出版物において言及されたことは全くありませんでしたが、2002年に第二版となり、その後も現在まで商業ルートに乗っています。つまり日本のどこの書店から注文を出しても、その本が届くという意味です。出版業界の見識に対しては,私は敬意と感謝しかありません。

窮乏化論への私の新解釈は、M氏以後に別の大学の数人の教授たちによっても剽窃されましたが、出版物の形で先鞭をつけたM氏見解へ言及した人は一人もおらず、誰もがあたかも自説のように述べています。又M氏以外の教授たちの論文はみな講座形式の著書の中にあり、各講座には編集委員たちが係わっており、したがって剽窃関係者は合計10数人に上ります。私は彼らの連名宛で、文書で質問書を送りましたが、理由説明のない否認回答の文書が一回返ってきただけでした。

又第Ⅰ点目の著書で、私は、論理学的矛盾が現実に存在することを詳しく述べています。『資本論』でマルクスは、論理学的矛盾の現実的な存在形態を扱っていますが、その詳細を述べていなかったし、エンゲルスが論理学的矛盾の現実的存在を承認する趣旨の文章を書いているので、その後世界各地の研究者によって議論が行われてきました。WWⅡ以後のそれらの国際的論争は、結局、論理学的矛盾は(人の観念の中にあっても)現実には存在しない、という認識で決着したと言われており、日本哲学界でもその認識が通説でした。しかし私は、和歌山大学修士論文で、論理学的矛盾が経済学的形態で現実に存在することを述べました。この1年位後に学外者であるM教授(前記の立大経済学部のM教授とは別人)が、論理学的矛盾は現実に存在するという趣旨の論文を出しました。これに対してすぐに従来的立場からの批判が出て、日本で再び矛盾論争が始まりました。M教授自身はその後論文を出していませんが、M教授を支持する教授たちが論陣を張り、それに対して従来的立場の大勢の教授たちが批判するという構図となり、論争は約10年続きました。しかし1980年に出した第Ⅰ点目の著書で、私は、論理学的立場から論理学的矛盾の現実性を述べ、又M教授が重要論点(『資本論』の方法)について私の修士論文剽窃したこと、M教授の矛盾論は私の修士論文の趣旨に無断で追随したものであること、を述べました。約10年続いた矛盾論争は主に日本マルクス主義哲学界の内部で行われた論争ですが、私の著書が出て以後は日本の哲学界全体でも矛盾に関する何らかの論述は全く行われなくなりました。私の矛盾理論について誰かが出版物の形態で言及したことはありませんが、論争終了という事実は私の矛盾理論を承認した、ということを意味します。しかし国際的な通説は現在も恐らく従来通りでしょう。これも日本哲学界における学問的態度に客観的・普遍的妥当性の面で問題ありということを意味しています。

 

 

注6 立教大学経済学部でマルクス経済学関係の授業を受けたせいで、私は卒業する頃にはすっかりいわゆる左翼学生になっていました。その頃私たち左翼学生の間の話題では、自分たちの思想に忠実に生きることのできそうな職業は、職業革命家と弁護士でした。しかし弁護士は自分たちの能力の範囲外であり、又仮に革命を目指す政党に所属したとしても職業として活動するほどの思想的準備は自分にはありません。有名な左翼教授たちの政治的動向は見聞きしていましたが、特に魅力を感じなかったため、大学教員という選択肢は全く念頭にありませんでした。

第二点目の著書でも少し書きましたが、卒業時点の私の気持ちは、具体的方針は未定でも何らかの仕方で社会改革の一翼を担おう、自分の思想或いは正義感に正直に生きよう、というものでした。しかしこの場合、現実社会について正しい思想をもつと共に思想の実践に対応する人格が必要です。しかし当時の私の自己認識では、思想的努力がもっと必要であるだけでなく、人格面でも根本的な自己改造が必要だという状態でした。卒業と同時に飛び込みセールスの仕事についたり、1年後に大学院へ入ったりしたのは、そのためです。これらの場合、次の認識もありました。丁度、スポーツ選手が自分の種目の練習だけでなく、日常生活全体をその練習の場として律するように、私も思想的努力の外に、日常生活において思想或いは正義感に正直に生きる力が必要だ、という認識です。このことはある大学の助手公募に応募したときにも、提出した書類に書いたことがあります。さらに付言すれば、助手採用審査において推薦教授にしかるべき助力を依頼することは、スポーツの試合で事前に誰かを通して審判に結果について依頼することに対応します。そんなことはスポーツの世界ではあってはならないことです。

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注7 私の立大大学院時代に、教務課のある職員が私に次の趣旨の話をしました。「立大では以前は学内から助手候補が現われた時には、他大学に助手の公募をだして対抗馬をその候補者へぶっつけたが、今度の某君の場合はそれがなかったなぁ」。その頃時の私が受けた印象は、「君が立大の教員になったら、教員人事のやり方を改革してほしい。」でした。

立大経済学部のその頃の教授会は、いわゆるボス教授支配・〇〇チュルドレンの形成等を思わせるものです。私が院生時代に経験した二度の審査にはこのボス教授の意向が強く働いていましたが、問題なのはその意向に客観的或いは普遍的な妥当性が欠けていたことでした(注1)。それに疑問をもつ教授がいた形跡はありましたが、何か具体的な成果があった形跡はありません。何しろ多くの教授たちが、このボス教授中心の指導部によって慣例的方法で採用されており、又私への二度の審査では自らも審査員になって、このボス教授とその側近たちの意向に同調したのですから、その後で審査結果に異議を唱えることはないのです。しかし私への審査結果がその後、他大学の教授たちに広く知られるようになり、そのボス教授は他大学の教授たちから制裁を受けました(注9)。以前院生だった私に教務課の職員が話したことは重要な心配事でもあったのですが、それが意外な仕方で実現したことになります。しかし立大内部ではそのボス教授はその後名誉教授になり、その教授が私に取った方針はその後もそのまま継承されています。例えば立大図書館には私の著書(注5)が一点だけありしかも書庫扱いです。私のすべての著書は関係諸学界における多くの通説を超える内容をもっていますが、立大教員には、それらの研究内容に対する誠意或いは敬意が見られません。ここには、以前の私への審査態度と同様に、相変わらず思想内容よりもそれを述べる人の社会的諸条件で評価する態度がありますが、恐らくその必要・十分条件は何か、大学における自分の教員活動と日本の文化との関係は何か、等という思想系の問題意識は立大教員たちには全くないでしょう。戻る。

 

 

注8 最高学府である大学におけるこの師弟関係は、中学・高校という初等教育にも影響しています。初等教育における教員採用は、形式上は公募による客観的審査ですが、その実態がそうなっていないという趣旨の話は昔も今も珍しくありません。有能で教育的使命感をもつ大学生が教職に就くためには、公募による客観的審査が必要ですが、そうなっていない場合は、採用された教員の資質に問題が生じるし、そこからさらに別の問題が生じます。例えば1970年代以後に顕著になった学校におけるいわゆるいじめ事件では、調査の結果いじめとは必ずしも認められないという趣旨の結論が極めて多い。その場合の調査関係者が責任逃れをしていることは、一見して明らかですが、報道で見るかぎりでは、教育界内部で問題視された例はなく、外部で問題になっているだけです。以前には殆ど聞いたこともなかった初等教育におけるいじめ行為は、不登校問題と共に、1970年代以後に常態化しています。しかし教員を養成する大学の教職課程担当の教授が、いじめ・不登校問題についてどんな講義をしてどんな教員を養成しているのか、教授たちが報道関係者にどんな話をしているのか、私には分かりません。はっきりしていることは、これらの問題で無能力ぶりを露呈している初等科教育の多くの教員たちは、大学で受けた教員養成課程の修了者です。したがって問題の原因の一つは大学教育にあるはずです。大学教授たちにはそんな認識はなさそうです。日本経済の高度成長期に広まった競争意識が、学校の生徒間において学業以外の面にも生じ、未熟で未思慮な形態で働いています。もちろん初等教育現場におけるいじめ・不登校が、企業世界における競争意識の反映であれば、学校教員だけの責任ではありません。しかし問題を個別的に見れば、問題の原因は経済的事情以外にもありうるのであり、例えばこの場合は学校が重要な原因です。教員採用方法その他の事例から見ると、初等科教育における教員関係は、大学における人間関係の反映であり、したがって初等科教育におけるいじめ問題の最大の直接的原因は、教員養成する大学教授にあります。無責任を決め込む態度まで、両者は対応しているように見えます。しかしこれらの自己認識は学校関係者には皆無のように見えます。要するに、いじめ問題にも必要・十分条件があるはずですから、最高学府である大学と教育界について科学的調査・研究が必要です。

研究職への大学院生の就職問題にも、同種の問題があります。有能で研究活動に使命感をもつ院生は客観的・普遍的妥当性を重視するので、その院生の中には、試験官になる教授たちも自分と同じように考えているのだろう、と思う人がいます。そこで、単純に募集案内書通りに受験して不合格の通知を受け取って初めて当惑することになります。大学院在籍中に輝かしい研究実績をあげた人が、研究職試験に落ちた例についての報道を、近年だけで数件見ました。大学レベルまでの入試合格者に男女差がなくても、研究職合格者に男女差があるのは、就職試験において客観的評価が行われていないからです。このように客観的審査を経ないで教員が採用されると、そこから問題が生じます。別の例としては1980年に私が剽窃問題を提起したとき、それに正しく対応できる教授は一人もいませんでした。それどころか大学のマルクス主義学派全体も対応できなかったために、その無能力ぶりが他学派によって利用されていました。各地の大学でマル経の教授が定年退職しても、その後任にマル経の教授が就任しないのです。マルクス主義学派は、WWⅡ以前から日本のさまざまの学問領域において一大勢力を占めていましたが、剽窃事件以後大学界における勢力をほとんど失いました。1980年代末の国際的社会主義陣営の崩壊より数年前のことです。しかし他方、マルクス主義学派を批判した他学派は、その前後に私が数点の自著において提示した諸学説に対して何の学問的対応も行っていません。しかもそれと共に、その諸学説が属する諸分野で学説発表自体に、特定の諸論点の無視・回避という奇妙な傾向が現われています。つまり諸学界の学説の発表数は従来通りですが、内容的には私が提示した諸見解への学問的対応がないだけでなく、その諸見解が係わる諸問題についても学問的対応がないという事例があります。あつものに懲りてなますを吹く、の類に似ています。しかもこれに似た現象は私の諸学説が関係しない全く別の分野にもあります。例えば日本考古学の分野では、いわゆる邪馬台国論争を中心にして、長年、大学界の内外で研究が行われていますが、ここにも研究・教育への誠実さ或いは敬意に係わる問題があるようです。つまり研究・教育への誠実さ或いは敬意よりも、それらを扱う人の社会的条件を重視する傾向があります。これは研究集団の内部ルールのように見えます。さらに言えば、客観性・普遍性への誠実さ或いは敬意が失われた事例は大学界以外にもあります。例えば司法界における冤罪や誤審に関する報道・伝聞は昔から珍しくありません。それらの直接的原因の多くは司法界におけるいわゆる官僚主義にありますが、その弊害の基礎には大学を頂点とする教育・研究世界における思想風土があるはずです。司法界に対して基礎である大学界の主体的対応は重要です。世界的に著名なある日本人発明家が以前述べたところによると、米国に比べて日本の学界では研究の成果にたいして、(客観的・普遍的立場からの)評価が重視されていないそうです。これは日本では、研究それ自体ではなく、その研究者の社会的諸事情が重視されて、それに基づいて研究成果が評価されているからです。この関係を司法界へ適用すると、事件への客観的・普遍的認識よりも、事件関係者・担当する司法関係者の社会的諸事情が重視される関係です。大学界の主体的対応は重要ですが、そこでは客観性・普遍性への誠実さ或いは敬意が必要です。他方、ここで重視される社会的諸事情は、研究者や司法関係者が学生・院生時代から経験してきた一連の慣例的な審査方法の結果以外のものではありません。客観的・普遍的立場を日常的な教育・研究の場で保つ営みは、批判的精神や革新的精神と重なりますが、それは相身互い的な人間関係と必ずしも整合しません。前者の習得には独自の訓練が必要です。ゼミなどでのディスカッションはその一つですが、武士道におけるような自己反省も重要です。ここでは自分自身が批判の主体であり、また対象です。武士道が伝える言葉として、例えば「独立自信」(佐藤一斉)、「(まっすぐな心は)取締役人だ」(山本常朝)「(道徳・仁義の)心を証人とする」(山鹿素行)等があります。この場合の心とは、内心における誠の心です(注13)。これらの言葉を私は第⒉点目の著書で紹介し、第3点目の著書ではこの武士道的態度で執筆しています。

この自己反省は、三省という言葉を伝える『論語』に主な起源をもち、日本文化の源であり、その意味では昔から知られている精神的態度です。それは現代のプロ野球の世界にもあります。例えば実績を残した監督たちが引退後に書いた著書を数冊見ましたが、いずれの内容も他人の意見ではなく、又他人に喜ばれたり褒められたりすることを期待したものでもなく、自分自身の認識力或いは批判力を最大限に重視する内容でした。その結果が清く・正しく・美しいものであれば、それは誠の心がそのように働いた、ということです(注13)。

ちなみに私の裁判経験を言えば、私と父親との間の包括的死因贈与契約に関して作成した「公正証書」は、本来は日銀券と同程度の信用力をもつ証書ですが、松江市における四つの裁判所全てで無効扱いされました。これを日銀券の場合で言えば、「ある人物がもっている日銀券はその作成に関与した関係者に精神異常があったため無効である」という場合に対応します。しかし契約に立ち会って証書を作成した公証人はその後も業務を継続し、他方、無効判決を出した地裁・高裁の裁判官のうち二人が定年前に自主退官しました。係争される事実関係よりもいわゆるサブカルチュア―的な諸事情が重視されたこと(すべての裁判が終わった後で考えてみると、裁判の公の場では提示されていなかったが、松江市の金融機関を含む数か所で私はヤクザ関係者だと言われていた形跡があった)、および司法官僚間のメンツ争い、等が原因と思われます。肝心の証書は最高裁で無効になりました。司法界の裏表を熟知して使いこなしてきた優等生たちによる最終仕上げ、という感じです。公証制度の趣旨に反するこの司法判断についても、その必要・十分条件は何かという問題がありますが、あいにく資料不足です。しかし私が冒頭で述べた問題(3)大学界における一般的問題(慣例的審査方法・その影響)に対しては、有効な判断材料の一つであると言えそうです。

大学を頂点とする研究・教育界における思想風土は、国民性或いは国レベルの文化或いはいわゆる民度、等に対して基礎的なものです。その思想風土は時代と共に変化するのであり、変化は客観的・普遍的な精神を基準にすることによって測定することができます。教員採用試験・剽窃問題・諸学界の研究動向等に見られる日本の大学界、公正証書の有効性問題に見られる日本の司法界、等に関する私の経験・経歴は、客観的・普遍的な精神がそれらの分野では恣意的に形式化・空洞化されているという事実を示しています。この時代思想に対して、大学の教員採用試験は唯一の原因ではありませんが、重要な諸原因の一つであることは明らかです。とくに採用試験はその後のすべてに対する始まりである、という点で重要です。

 

 

 

 

 

 

 

注9 月刊誌『経済』には、有力なマル経学者が死亡すると追悼文がのりました。立大のM教授の場合も乗りましたが、それ以前に死亡した数人の教授たちの場合、すべて二人の教授(本人が所属していた大学の後輩教授と外部の大学のしかるべき有力教授)が書いてたのに対して、M教授の場合は立大の後輩教授のみでした。M教授は経済理論学会の代表幹事や日本学術会議の会員になった人であり、このような人へのこのような事態は異例です。その理由を述べた情報を見聞きしたことはありませんが、私にはすぐ思い出すことがあります。M教授は、私の大学院時代には研究科委員長として修士論文の審査員三人を任命し、ドクターコース進級試験では審査委員長であり、その5年後に私が自分の経験を確認するために面会調査をしたときには、私のことを、立大大学院に在籍したことを含めて全く覚えていない、という態度に終始し、しかもその数年後私が自分の論文を出版したいと思って出版社巡りをして不首尾に終わったとき、現役の立大経済学部の教授でした。出版社巡りで担当者から必ず聞かれることは「どちらの大学のご出身ですか」であり、私が「立教です」と答えると、担当者は必ず何か考え始めます。その後の詳細は不明ですが、すべて不首尾でした。この結果は暗示的です。つまりM教授とその周囲の教授たちは、私を研究者としては全く認めてこなかったということです。他方私は、自著の出版活動その他によって、その後マル経学界だけでなくその他の諸学界や、大学外の諸分野で名前を知られる存在になりましたが、その場合私と立大経済学部との関係も一緒に知られることになりました。その詳細はしりませんが、立大外のしかるべき有力教授たちが誰もM教授への追悼文を書かなかったことは、その詳細を暗示しています。又ある立大教授が、ネット上にM教授を追悼する文章を載せたことがありました。これは追悼文問題への他大学の有力教授たちの態度に対する、Mチュルドレンの対抗措置という意味があります。少なくとも立大内部で院生たちにM路線を確認させる効果はあったでしょう。この問題に関しては外に次の事実があります。その後私が立大のある同窓会場で、ある大学院卒業生と同席したとき、彼は私に、ただ単に出身大学はどちらだったんですが、と聞いてきました。これは立大内における教授たちの私に関する新たな奇怪な情報操作を暗示しています(注7)。へ戻る。

 

 

注10 現代の日本教育界における競争の一つとして大学入試があり、そのためにいわゆる学校の優等生の養成が行われています。ここでいう学校の優等生とは、先生に言われたことをしっかり覚えて正しく紙に書いたり話したりできる人です。それは有益な能力ですが、現実生活では、それだけでは不十分です。現実生活では、眼前やそれ以外の状況への判断力、現在とその後の状況への判断力が必要です。単なる優等生タイプの人の場合、職場の上司や先輩に教えられたことは出来てもそれ以外のことができない、という場合があります。教えられたことを習得するために精力の多くを使ってしまったからでしょう。西洋には「真理は時代の娘」という諺がありますが、優等生も時代の子であり、具体的に言えば、教育担当者たちの子です(注11)。ちなみに私が子供の頃に聞いたWWⅡ以前の優等生の場合は、友達と同じようにスポーツや遊びに明け暮れながら、人に見えないところで勉強して、成績も優秀な人でした。したがって成績優秀者の多くは同時に社会生活でも状況判断のできる指導者タイプでもあったのです。WWⅡでの敗戦後、戦地に出た学生たちが学校に戻ってみたら、クラスの以前の優等生たちのほとんどが戦死しており、ぼんくらたちが生き残った、という述懐を聞いたことがあります。彼ら優等生たちの遺稿によると、優等生たちは状況を正しく認識し自分の戦死を予想し、その予想通りに死んでいます。WWWⅡ以後にも、しばらくは新時代に対応するための客観的・普遍的妥当性を志向する思想は生き続けていましたが、その後の高度経済的成長の流れの中で、いわゆるミーイズムの台頭や戦国時代的傾向(例えば職場への領地主義、自己責任論)のなかで、時代思想は様変わりしています。 一般に大学教授は学校の優等生であり、又私の院生時代に見聞きした大学教授はほとんど社会改革を是とするマル経関係者でしたが、私が直面した諸問題(手抜き審査・助手公募・剽窃事件等)に対して、客観的・普遍的に妥当な対応ができる人は皆無でした。しかしこの不適切な対応は、その後マル経以外の分野の教授たちにも見られましたから、客観的・普遍的なものへの忠誠心・敬意に関係するこの種の問題は現代日本の大学(とくに文系)にかなり共通するようです。むしろ共通の多数意見である点で、それらの教授は、自分たちの認識こそが客観的・普遍的に妥当である、と思っているかもしれません。後述する私の生活体系論から言えば、要するに現代は、「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」という言葉がそのまま受け入れられるような思想系の時代ではありません。この言葉が書き出された時代も、非思想系の傾向が深まりつつある時代であり、この言葉は、その中で思想系の人間の存在証明として書き出されています。現代も、社会的諸関係における地位や名誉を求めたり、自然つまり物質的なものに対する何らかの成果を競ったりすることが中心的関心事或いは最「善」になっています。これらの自然系・人間系の活動からは各種の否定面が必然的に生じます。私の生活体系論から言えば、これらの否定面も法則的なものです(注14)。つまりこの原理的体系全体はいつも働き、現実はこの体系の複雑な類型の相互関係であり、そこには法則性があるのです。このため現代にも、「されどわれらが日々」にも、つまり自然系の欲望や人間系の欲望(いわゆる金と力)が社会の中心的関心事になり、思想がそのための道具として扱われていても、思想系には法則的役割があり、そのなかの不人気な役割さえも社会の誰かが担はなければなりません。私の第2・第3点目の著書に見るように、人間は超越的とも見える法則の中で生きているのであり、思想系の活動はその法則によって与えられた状況の中で与えられた機能を担うのです。付言すれば、この超越的とも見える法則は原初的には宗教に属し、私の第4点目の著書(『「論語」・「中庸』の編集思想―秘密の研究集団の目的は何か?―』))が述べているように、宗教は人間の帰属意識その他に基づく必然的な思想活動です。

 

 

注11 『論語』が述べる君子像は人間一般に共通する内容ですが、各内容には発展過程があります。共通性の面としては、例えば、状況判断の方法があります。『論語』では主体と対象との両面について、認識の諸段階を述べています。有名な「学んで時にこれを習う」という言葉は、対象つまり状況判断の面に係わります。この言葉は、既存・現存の知識を基準にしてその具体的・実践的意味を考えよ、という意味であり、現代的に言えば客観的・普遍的妥当性の認識を目的としています。『論語』では、この知識・実践の関係が初期的段階から具体的な諸段階へ発展する過程を述べています。この過程の目的は「善」であり、又立派な君子になることであり、君子はその使命を果たすためにこの修行に励むのです。

他方、君子には主体の発展過程と主体間の競争があります。『論語』では、君子は徳の内容と充実性を競うのであり、知識や技術はそのための手段です。現代風な思想分類で言えば、主体間争いは哲学分野での争いであり、学問・芸術分野はそのための手段です。徳或いは哲学は一般的性格の原理、つまり学問・芸術、宗教における全ての知識に対して一般的・基礎的な説明原理として働く原理を扱います。どの徳も一般的性格をもつので、徳の競争は、いわば量的な競争ではなく、質的な競争であり、状況に対する必要性・重要性が問題になりますが、これは状況に応じて変わるので、徳そのものの優劣はありません。状況には種類があり、これは人間社会の本質的構造や当面の在り方への、主体による見方に係わります。中国の春秋戦国時代には諸子百家がいましたが、彼らの思想は、人間主体は社会の本質的構造におけるどんな面を重視するべきか、そのためには主体におけるどんな面を重視するべきか、ということにおいて違いがあります。『論語』では、主体における徳一般とその具体的種類としては、真心とさまざまの礼が言われています。

 『論語』における徳は、現代的に言えば哲学的原理であり、私の「生活体系(自然・人間・思想)」論を用いると、哲学は「自然系哲学・人間系哲学・思想系哲学」に分類されます。ここで生活体系は人間活動の対象として働いています(系について、又活動対象の通俗的表現が「金・力・真理」であること等については、注14参照。)。『論語』における徳の種類に対しては、例えば仁・礼一般・孝悌等の具体的な諸礼は人間系、智・中庸等は思想系であり、自然系の徳はないに等しい、と言えます。思想系の徳は、通常は認識方法と呼ばれる内容をもち、「善」の認識を目的としています。もちろんそこには「正しさ」の意味もありますが、正しさは義と呼ばれて主に社会的生活に係わり、現代における真理とは異なります。つまり『論語』では、さまざまな社会的状況における「善」の認識が問題になっており、そのための方法が発展段階的に示されています。その内容は、近代的な認識方法論の立場から見ても驚くほど組織的に緻密であり、又その過程には『論語』編集者たちが経験したらしいさまざまの限界や挫折を垣間見ることができます。、。

 

 

 

注12 私が大学院時代に経験した範囲でいえば、自説の誤りやその修正を隠しつつ強弁して教授会へ虚偽報告した教授の場合、その後何の処分も受けす名誉教授になりました。騙された教授たちは、自分たち自身も普遍的・客観的に妥当な審査をせずに簡単に騙されてしまったので、騙した教授たちと事実上同罪であり、彼らを批判するほどの資格がありません。騙された教授たちも、誤った判断・裁定をしたことについて、その後何の処分も受けず名誉教授になりました。彼ら以外の教授たちもやはり客観的・普遍的に妥当な態度で問題を扱うことができなかったのです。これらの問題を起こした教授たちの心の基礎的部分に、それぞれの院生時代に身に着けた思想習慣・人格的紐帯認識があることは明らかです。虚偽報告をした教授たちと騙された教授たちのなかに最古参クラスの有力教授たちがいたという事実、他の教授たちは彼らによって採用されたという経緯もあります。当時の教授会内部にこれらの審査問題に批判的見方をする人がいたかもしれませんが、慣例的な力関係に影響した形跡はありません。教授世界で人事がもつ影響力は重要かつ強力ですが、助手採用人事が推薦中心で行われる場合は、教授世界における客観性・普遍性は危うい。とくに政治的野心の強い有力教授が主導する推薦人事の場合、客観的審査を伴わなければ、さらに危うくなります。いわゆるボス教授支配体制の成立であり、この場合は外の教員たちの多くは〇〇チュルドレンの感があります(注7

教授会の内部問題以外にも、学界問題や、大学の運営問題があります(注8)。1990年代に政府主導の大学改革が始まったのは、それまでの日本の政治・経済・社会等の変化過程に対して大学が対応していない、という政府認識があったからです。政府主導の改革の特長の一つはいわゆる競争原理の導入でした。その具体的方法の問題は別にして、この原理の導入自体は必要でした。私が概観したところでは、政府主導の大学改革に対しては、当初の反対活動は極めて微弱で、改革の必要性やむなしという感じがありました。その後政府主導の改革路線の問題点が現われるのに応じて、反対意見が増えたようです。しかし報道されているそれらの反対意見は、過去の自治はもちろん現在の自治における問題点を全く扱わずにただ単に大学自治の重視だけの立場から反論するものであり、深刻な認識不足が続いているという感じです。今必要な認識は、現行の大学における研究・教育上の問題の再検討であり、競争原理の具体的方法の研究です(注10・11)。る。

 

 

注13 武士道における「心」は、実は、儒教特に『論語』における「誠」を起源にしており、「誠」はすでに奈良時代の皇室文書『続日本紀』に「清く・正しく・美しく」という言葉の起源として使われています。『続日本紀』には、この言葉の起源その他の関係についての説明はありません。又それを説明した学説についても、私自身は見聞きしたことはありません。しかし私の第4点目の著書『「論語」・「中庸」の編集思想』では、この起源・諸関係について詳述しています。本稿で私が客観的・普遍的妥当性という場合、当面は「(最)善」の意味ですが、思想一般の原理的内容を「宗教・学問芸術・哲学」という体系としてみると、「(最)善」にはこの体系的な意味があり、「清く・正しく・美しく」という言葉は、この原理的体系をある程度反映しています。

論語』が前提しているように、人は誰でも何らかの家族の子であり、この家族的精神の本質として「誠」の心をもっていますが、誠の働きは、それが同時に持っているそのほかの心と何らかの意味で融和的に関係します。「誠」の心はさまざまの対象(意識内容)に対して認識・評価・指示等の働きをしますが、この働きが「清く・正しく・美しく」なるためには、心全体がそれに対応した調和を保つことが必要です。科学の分野では、「誠」は主に正しい認識として働きますが、ここには間違った認識への批判を含みます。したがって誠の心には批判力があり、その力が正しく働くためにはいろいろ必要な態度があります。現代的に言えば科学的態度です。ここには単に間違った認識を排斥するだけでなく、それを間違った認識として正しく位置付ける態度があり、ここから両者からなる新しい世界が形成されます。単純な真理よりも多数の誤謬を誤謬として従えた真理の方が価値は大きいのです。『論語』ではほとんどの徳が発展的に説明されていますが、個々の徳は、対象的なものを律すると共に、自分の初期的な状態を乗り越えて新たな形態になります。乗り越える点では、初期的なものは排斥されますが、初期的なものとして正しく位置付けられるので、かえってその存在価値をより正しく示すのです。これらの場合、単に科学的態度だけでなく、その外の誠の心も発展しています。そこで目指す「(最)善」は、客観的・普遍的な精神的態度が目指す調和的な境地でもあります。

 

注14 人間的生活の一般的原理体系「自然・人間・思想」を、人間活動の対象と見ると、生理的・生産的活動、社会関係、思想活動が出てきます。どんな人間もどんなときにも、この三つの対象に対して何らかの活動するのですが、そこには中心的なものがあり、この中心性からより具体的な活動区分が出てきます。マルクス・エンゲルスは、経済が基礎であり、政治や思想はその上部構造である、と考えましたが、そのいわゆる唯物論は、私の原理から言えば、自然・人間系と思想系との関係です。ここでいう系とは、体系的三者関係の中心、三者体系の全体的性格、つまり類型を表します。実際、唯物論における経済とは、人の生理的活動、そこから生じる何らかの財の生産・その所有・流通・分配・管理の諸活動、そこに必然的に働くさまざまの経済的思想活動を含んでいます。通常は、直接的生産、流通・分配、管理(経営つまり組織的支配関係とその関係思想)の三者関係と見られています。ここにも自然・人間・思想の三者関係がありますが、この全体である経済の中心が直接的生産であり、したがって経済は自然系の活動です。これに対して、人間系(いわゆる社会・政治)・思想系(いわゆる教育・報道・研究)の活動があり、より具体的な三者関係が成立します。これは産業構造と呼ばれています。どんな人間も、生きる以上はこの最も具体的な具体的な三者関係全体に係わりますが、しかしそこにおける中心の違いによって、直接的生産者・サービス業や管理者・知的労働者という類型区分が成立します。しかし現実の人間活動はさらに複雑であり、それに対しては、この三類型体系の中心に基づきつつ、より具体的な類型区分によって対応することができます。実際にも例えば現代農家のどれも、この具体的三類型すべての活動をしており、しかもその中心性によって、職業分類では自然系つまり自然を主たる活動対象にする職業に属しています。このような「原理的体系と中心」という見方(方法論)は、その外の人間活動に対しても適用可能であり、私の第3点目の著書では、中国の石器時代における遺跡・遺物の分類に適用しています。この方法論は、いわゆる空間的分類法としては、出土品の種類或いは用途・地域的特徴の分類のために適用可能であり、時間的区分すなわち歴史的区分法としては、石器時代の時代区分のために適用可能です。時間的・歴史的区分では、体系とその類型化という方法の繰り返しが進行します。私の第3点目の著書は空間的と時間的の両面で原理的方法の有効性を検証しています。私の第⒉点目の著書(『新しい哲学は和歌を通して 第一部日本人はどうして哲学的か』)は、特に思想系原理を日本文化史へ適用し、その空間的・時間的適用方法を検証しています。まず、思想系原理として宗教・学問芸術・哲学の三区分をもつ体系を示し、この三類型を日本の支配層が分担していることを示しています。ここでは原理的体系は理論的区分法として用いられています。しかしここから歴史的区分法が出てきます。その一つの方法とは、三類型の相互関係が変化することから生じます。この歴史的一般的法則を見出す試みが、私の第2点目の著書の目的の一つでした。歴史の一般的法則に対しては、ヘーゲル論理学における本質性の原理体系(同一性・差異性・対立)は有力候補でしたが、現実の歴史へ適用するためには、その原理の改良が必要であり、この改良のためには弁証法理論の改良も必要でした。これらの事情は第Ⅰ点目の著書の第二版序論で述べています。又第3点目の著書では、二つ目の歴史的方法として、生活体系(或いは生活的原理体系)をそのまま歴史的過程へ適用して時代区分をしています。この区分法は、考古学的出土品においては有効でしたが、その後の時代に対しては、この原理的方法の発展が必要です。こうして二つの歴史的区分法が出てきましたが、これらの区分法の最終的役割は、いわゆる未来予測です。第⒉点目の著書は、今後の日本の文化的・政治的未来を予想すること、第3点目の著書は、今後の人類の文化的・政治的未来を予測すること、が最終目的でした。その課題は諸般の事情でその後手付かず状態にあります。へ戻る。

しかし真の成功のためには、さらに多くの検証例とより詳しい研究が必要です。期待される役立ちとしては、この生活原理的体系論は、職業以外にもさまざまの集団に対して適用され、それらの成員は体系の内部的原理のいずれかを担当し、体系がもつ法則性に従って活動すべきものです。個々の成員の自由な活動は、この法則的運動の質と量に係わり、それによって全体的運動の厚み或いは彩り(いろどり)つまり文化の高さに係わります。自由に基づく多様な因果関係の出現は、法則の適用対象の多様化であり、体系的発展であり、等々です。

生活原理的体系内のこの因果関係を、ごく通俗的に要約すれば、真理を求める態度と、金と力を求める態度との関係です(金と力という言葉は、昔は社会的力と肉体的力を意味しましたが、現代ではむしろ物質的力と社会的地位、例えば収入金額と肩書という意味が分かりやすいようです)。それらの態度が向かう対象を原理的体系の面で言えば、真理は思想的なものであり、金は物質的つまり自然的なものであり、力は社会的つまり人間的なものです。私が関与した大学問題その他を、この原理的体系で示せば、三つの類型の間における因果関係になりますから、そこで働く法則性が問題になります。

因果関係に関しては、宗教ではさまざまの逆説が言われています(例えば善人なおもて往生を遂(と)ぐいわんや悪人をや。/心の貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである。/(たくさんのことを学び覚えているという世間の自分=孔子への見方に対して)違うよ。わしは一つのことでつらぬいている。等)。これらの場合、通常の見方からその逆のことが導き出されています。通常の見方からすれば、受け入れられないかもしれませんが、逆説は真実です。尤も逆説が真実としての実を示すのはそこからさらなる逆説が生じるからであり(例えば悪人や心の貧しき者の改心、一つのものつまり徳の普遍的性格の提示)、こうしてヘーゲルが述べたように真理は弁証法が貫く世界になるのです。彼の論理学は純粋な真理の世界・神の国であると言われ、そこでは弁証法は純粋な・抽象的な・一般的な言葉で表されています。

なお因果関係が逆説を含むことからさらに付言すると、通常の歴史認識とは異なる認識が可能になります。例えば1960年安保闘争とその後の為政者の政治姿勢や政策、1970年全共闘運動とその後の社会的無風状態・その後の海外ボランティアの盛行、等の場合、興味ある因果関係が存在します。通常の認識ではそこに因果関係を見ても、それぞれの原因への否定或いは反省による新たなものの成立を見るのであって、原因に肯定的・有用的作用をみることは稀でしょう。しかし原理的体系の立場から言えば、どの原因も原因として肯定的・有用的であり、その具体的意味の違いがあるだけです。このような歴史観或いは因果関係に対しては、否定的見方もできますが、原理的体系の立場から言えば、それらの見方さえも何らかの法則的な因果関係の中にあります。「谷深ければ山たかし」という言葉の通り、谷を深める活動と山を高める活動とは本質的に同一であり、同一の因果関係の要素であり、その担い手や具体的形態において違いがあるだけです。つまり2つのものが内容的に対立していても、対立自体が同一原理の働き・因果関係の中にあり、法則的である点で、古来、神の摂理とか仏の知恵などと言われているものに相当します。私の第2点目の著書の主要な目的は、歴史的現実における一般的法則の確認でした。現実は多様な因果関係の全体であり、全体的運動は何らかの法則性をもつのではないか、という問題意識がありました。この超越的な歴史的一般的法則に対しては、ヘーゲル論理学における原理の働きが有力候補でしたので、その著書では、その原理の改良型を適用して日本文化史の理論的構成を試みています(第1点目の著書の第二版序文参照)。しかしその検証だけでは、法則の一般的妥当性の証明として不十分です。もっと多様な歴史において検証する必要があります。